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タテハ通信

好きな物があればあるほど人生は楽しい。そんな私の日常を綴っています。

チンプンカンプンの木

父方の祖父母の家に、チンプンカンプンの木という不思議な木がありました。そんな名前の木がある筈はなく、どこからか飛んできた種が根付いて成長したので、誰も名前を知らなくてそんな呼び名を勝手に付けたのだと思います。

記憶の中だけにあるその木は、後に調べた植物図鑑では、形状はイチイの木に近かったように思います。季節は分かりませんが、小さな赤い実がなり、熟れた頃には数少ないその実を、私を含めたいとこたちが食べていました。イチイの種には毒があるので、他の木だったのかも知れませんが・・・。

 

祖父母の家には、母屋と離れを繋ぐ雨よけの屋根がついた渡り廊下があり、その廊下の中ほどの、コの字型に切り抜かれた場所に食い込むように、高さ2メートル程のその木は生えていました。

                   イチイの木

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何故、廊下を切り抜いてまでその木を大事にしているのか、私にはとても不思議に思われました。

しかしある日、木をじっと眺めている私に祖母が話してくれました。

 

1943年(昭和18年)9月10日、鳥取は震災にみまわれました。

震源地は鳥取市マグニチュード7.2、震度6と言いますから、相当大きな地震です。当時の殆どの家は木造でしたので、市内中心部のほぼ全ての家屋が倒壊しました。

時間は17時36分54秒。夕飯の支度をしている時刻で、台所から出た火は被害の拡大に追い打ちを掛けました。市内は壊滅状態。当時小学生だった父も母も家を失いました。丘の上から、母は燃える市街をただ呆然と眺めていたと言います。

戦時中だったため、中心になって活躍すべき男手は少なく、地震によって鉄道は不通になり、救援物資もなかなか現地に届かない。戦意喪失を恐れてか、地震は大々的には公表されなかった、という説もあります。

避難が早かったので、両親の家族は全員、命を奪われることはありませんでしたが、それから何年かの暮らしは、困窮を極めたと聞いています。

 

さて、先ほどの木の話に戻りましょう。

祖母によれば、地震が起きた時、父は木にしがみついて難を逃れたそうなのです。それほどの強い揺れにも関わらず、奇跡的に無傷でした。

しっかりと根を張った木のお陰で物にぶつかることもなく、木の枝が緩衝材の役目をして、次々に落ちてくる瓦も、頭を直撃せずに済んだのです。

 

その後で家を建て直し、渡り廊下を造るときにも、誰もその邪魔になる木を切ろうという人は居なかったそうです。

なるほど、それでこの木は大切にされているのか、と幼い私は納得しました。

この話を父からは一度も聞いたことがありません。あまりに地震のショックが大きすぎて、語る言葉が無かったのかもしれません。

 

3・11の震災の直後、沈んだ気持ちで見上げた青空に、白い木蓮の花がくっきりと鮮やかに咲いていました。どのような災いにも斟酌せず、ただひたすら咲く花の強さに、心が震えました。 

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