タテハ通信

好きな物があればあるほど人生は楽しい。そんな私の日常を綴っています。

坂道を上る時ー『幻坂』を読んで

おおよそ、人間ほど厄介な代物はない。生きていればあちらこちらで迷惑を掛け続け、死んだら死んだで未練を断ち切れず、亡霊になって彷徨い出る。

この本を読むと、そんな感想がため息とともに出てきます。

幻坂 (幽BOOKS)

幻坂 (幽BOOKS)

 

大阪の坂道を舞台に展開する、9篇の 幻想的なストーリー。

この世に思いを遺した霊が、坂道の向こうから上って来る。その密かな気配をこちら側にいる人が感じ取り、霊への愛情を募らせている。そんな少し怖くて悲しい物語です。作中の坂道は、この世とあの世の接点として存在しています。

向こうが見えないだけに、平坦な道より、坂道というのは想像力をかきたてられます。見えないものへの畏敬の念というか、一種の霊的な存在を感じさせる要素なのかもしれません。

 

読了後まず浮かんだのは、有栖川有栖は短編の名手である、という感想でした。

柔らかい文章を通して、霊とかかわる主人公の気持ちがじんわり伝わり、その分、後でゾクリとする怖さも待ち受けています。不要な部分が削ぎ落とされた表現は、ビターな大人味。まさに短編の妙味です。

 

本を読みながら、私はある坂道を思い出していました。この本に出てくるような都会の坂道ではなく、名もない田舎道です。

バスを降りるとよろず屋さんが一軒あり、他には民家が点在するだけの村。母と幼い私はその中にある、長くなだらかな上り坂を歩いていました。

 

日傘の下の母の顔を時折伺いながら坂の途中まで上った時、不意に潮の香りがしてきました。坂の上には空しか見えないのに、その向こうにある海を、私は強く感じていました。

頂上に上り詰めると、下り坂には白い砂浜が広がり、その向こうは青く凪いだ海。沖へ向かう小舟が白い軌跡を作り、私達は砂浜に座り込んでじっとそれを見詰めていました。

突然我に返ったように母は立ち上がり、スカートの砂を払って「さあ、帰ろう」と私の手を引きました。

帰路についた二人の足取りは、来た時よりも軽くなっていたような気がします。

ただそれだけの思い出なのに、何故か忘れられないのです。

母は、恐らく何か悩みを抱えていたのでしょう。何故海へ行ったのか、問う事もないまま、私はその時の母の年齢をとうに追い越してしまいました。

もしかすると、坂の向こうの茫洋と広がる海に気持ちを切り替え、来た道を引き返す勇気を得たのかも知れません。

坂道にはそんな力があるような気がします。